日本史の実行犯 ~あの方を斬ったの…それがしです~鎌倉幕府3代将軍・源実朝を暗殺した僧侶~
日本史の実行犯 ~あの方を斬ったの…それがしです~
実朝の首を手にした公暁は、大石段を駆け上り、その上で「別当、阿闍梨(あじゃり)公暁! 父の敵を討ち取ったり!」と名乗りを上げたと『吾妻鏡』には記されています。
実朝の享年は28でした。
実朝に従っていた者たちは「皆、蜘(くも)の子を散すごとくに、公卿も何(いずれ)も逃げにけり」と『愚管抄』にあるように、すぐさま逃げ出してしまったそうです。
その後、公暁は実朝の首を持って、雪下北谷(ゆきのしたきたがのやつ)にある備中阿闍梨(びっちゅうあじゃり:公暁の後見人)の屋敷を訪れ、食事をしました。この食事の際、公暁は実朝の首をずっと手放さなかったといいます。一種の興奮状態にあったと考えられ、「宿願」への強い執念を感じる一方、生い立ちから生まれた狂気を垣間見られます。
食事を終えた公暁は、自身の乳母夫である三浦義村に使者を送り、こう伝えたと言います。
「今、将軍の闕(欠)有り。吾れ専ら東関の長に当たる也。早く計儀を廻らすべし」
つまり「将軍に欠員ができたので、我こそ関東の長の当たるのだから、早く計略を巡らせてくれ」と命令したのです。義村は公暁の乳母夫であり、その子の駒若丸は公暁の門弟であったことから、義村は第一の家臣として、自身に味方をしてくれると期待したようです。
公暁の使者から報せを受けた義村は「迎えの兵を出すので、自分の家に来てほしい」と迎えの兵を送った後、北条義時に使者を送って事情を告げました。
すると、義時からは「阿闍梨(公暁)を誅し奉るべし」と命じられたため、軍議を開いた義村は、一転して公暁へ刺客を送ることを決定します。
軍議では「(公暁は)はなはだ武勇に足り、直(ただ)なる人には非ず」と公暁の武勇を普通の人ではないと警戒し、義村は家中で「勇敢の器」と称される長尾定景(ながお・さだかげ)を刺客に選び、5人の郎党をつけて、甲冑を身に付けさせ、備中阿闍梨の屋敷へと向かわせました。
その頃、公暁は義村からの迎えが遅いので、備中阿闍梨の屋敷を出て、義村の屋敷へと向かっていました。鶴岡八幡宮の背後の大臣山(だいじんやま)を登っていると、向こうから6人の武士が降ってくるのが目に入りました。
公暁は義村が派遣した、味方となる兵だと思ったでしょう。しかし、それは公暁を殺めるために遣われた刺客だったのです。簡易な腹巻(鎧の一種)を身にまとった公暁は、一人で刺客たちに立ち向かったものの、衆寡敵せず、刺客の1人の雑賀次郎(さいかの・じろう)に組み敷かれ、定景によって首を落とされてしまいました。
こうして公暁は「宿願」を遂げたわずか数時間後に、その生涯を終えました。享年は20でした。
公暁が挙げた実朝の首は、どういうわけか、行方が分からなくなりました。そのため、首の代わりに髪を胴と共に入棺し、勝長寿院(しょうちょうじいん:鎌倉市)に葬られました。また一説によると、実朝の首は、公暁への刺客の1人だった武常晴(たけ・つねはる)が持ち去ったといいます。詳しい理由は不明ながら、波多野家を頼って埋葬され、実朝を供養するため、首塚の近くに金剛寺(神奈川県秦野市)が創建されたと言います。
一方で、刺客に取られた公暁の首は、義村によって北条義時の下へ運ばれ首実検が行われたと言います。しかし、その後の公暁の首の行方は知れず、公暁に関する墓や供養塔は、未だに見つかっていません。